65才の独り言

     

     わらじを履いて海に行ったあの頃  20155月 

 

大人たちの冬の寄り合いには必ず火鉢があった。

火鉢の五徳に薬缶が乗り、白い蒸気が音を立てて出ていた。

寄り合いの始まる時間に家を出るのが常で、

寄り合いが時間通りに始まることはなかった。

赤々と熾った炭火を時々火箸でせせりながら寄り合いは果てしなく続く、

田舎の寄り合い、それはある種の楽しみのひとつであった。

 

国鉄の列車は一時間に一本、

今笑って聞く吉幾三の(俺らこんな村嫌だ)の世界だった

駅舎の待合で列車を待つ間、出会った人どうし話しに花が咲く

ゆったりとした時が過ぎ、「まめなかな」と声を掛け合う。

互の健康を確認するのも駅舎待合での挨拶が役立った。

 

早朝母がくど(かまど)で飯を炊く、

割り木を焼べ桃印マッチで火をつける

ほどなく割り木が真っ赤な炎となり、熱で顔が熱い。

釜の蓋から蒸気が漏れ、蓋を押し上げあぶくが出る

そろそろ炊き上がりの合図、後は蒸らすだけ、

 

炭の残りは空消し壺に十能で移し保存する。

外では姉が七輪に火を起こす

今朝天秤担いだ吉浦の何時ものおばさんから買った魚

煙と格闘しながら団扇でパタパタと風を送り焼く。

何時もはやさしい姉も

この時ばかりは七輪奉行、

全てを取り仕切る

私は側で黙って傍観していた。

 

何時もは麦入りの銀飯

たまの金飯はそれだけでご馳走だった。

ちゃぶ台は円く真ん中で二つに折れるものだった。

出稼ぎから年に数回帰る父は必ず上座に殿と座り

口数も少なく威風堂々としていた。

 

父には何時も皆よりおかずが一品多かったが,

それに対して不平を言う子供は一人もいなかった。

 

我が家にテレビが初めてやってきたのは小学1年の頃、嬉しかった。

連日隣近所から十数人がテレビ観戦

NHKの放送終了の日の丸が出るまで、

誰も帰らずに見入っていたあの頃がなつかしい。

 

 

当時の番組で記憶にあるのは、バス通り裏、娘と私、チロリン村とくるみの木、ブーフーウー、お笑い三人組、時間よ止まれなどだった。

高橋敬三さんや宮田輝さん相撲では大鵬柏戸豊山だった。

 

湊には芝居小屋があり、

木戸銭を払って映画や芝居を見た。

映画は今と違い何時も2本建てで、ゴザ持参だった。

芝居は農閑期などに旗を立てたトラックに役者数名が乗り、

鳴り物入りで宣伝の車がやって来た。

子役が出て芝居が盛り上がるとおひねりも飛んだ

大人も子供も貧しい中で、皆精一杯生きていた。

 

春、夏、冬とある休みの中で、一番は何と言っても夏休みだった。

海まで徒歩で30分、

定番の梅干入りのおにぎりを持ち意気揚々と男兄弟三人で出発する。

必需品の水はボコボコと傷の付いたアルミの水筒を各自が持つ。

お袋が夏豆を炒ったものを袋に入れて用意してくれ

それを腰に紐でくくりつけて泳ぐ

頃合いを見て海から上がって食すと、

塩梅が良く、豆がふやけて柔らかくなり、これが絶妙にうまい。

もう50数年も前の事だが、舌に豆の味の記憶が蘇る。

 

岩がすべるからとお袋は海に出かける度に

何時も新しいわらじを持たせてくれた。

ハギレを巻いた鼻緒は母のオリジナルだった。

田舎を発って間もなく50年、

すでに都会で過ごした時間が田舎のそれの3倍にならんとする今も、

振り返ると鮮明にあの頃を思い出す。

 

日々時間に追われた忙しい毎日、

時の流れは今昔同じだが、

都会のそれは田舎と違い

うつろうという時間のゆとりが無い

立ち止まり今と過去を振り返ると、

便利にどっぷりと浸かりすぎ何か忘れ物をした自分がいる

 

出会いがあれば別れが有る、喜びがあれば悲しみが有る、

これらは避けては通れない人の定め、

今地球上に生きる全人口70億分の一の自分をもう一度見つめなおし、

生きとし生ける者の無常を嘆くことなく

感謝の念で生きて行きたい。

今自分が生きているその事が奇跡であることを自覚して。